たわごとノート

マエテツのブログです。本、音楽、マンガ、映画の感想、雑記など。

ほしいもノート ーBOSE soundlink revolve+ー

BOSEのスピーカーのことは前から知っていた。




スピーカーのことを考え出したのはいつ頃だっただろう?

CDコンポを買おうとしていた時だったろうか?


ポータブルMDプレーヤーに付属のスピーカーを見た時だっただろうか?



高校生の始め、アルバイトを始めてできた小遣いからそういった音楽機器を買えるようになってから、時々ぼくはスピーカーのことを考えていた。

同じ頃、ナショナルジオグラフィックの定期購読の雑誌がうちにあって、動物の写真を眺めることが好きだったのだけど、そのページの合間に現れるスピーカーの広告を見てBOSEのことを知ったのが初めてだったと思う。


ナショナルジオグラフィックはクオリティの高い写真を伴う記事たちとともに、クオリティの高い製品を広告として出していたような記憶がある。
上等なカメラだとかスピーカーだとかそういったものだ。

そういうものが手に入るということがぼくの憧れの中のひとつであった。今描いていて思い出したのだけど、この雑誌の広告はぼくの物欲に、わりに強い影響を与えたのだと思う。

その後ちゃっかりぼくは一眼レフのカメラだって買っているし、それからずっとBOSEは少し気になる憧れの存在であった。


それに、MDプレーヤーの時もそうだったのだけれど、外に持ち運ぶことのできるスピーカー、というものに少し執着があったように思う。


音楽を貪るように聴くようなフリークではなかったにせよ、好きな音楽が僕は好きだったし、それを外で聴きたいと思っていた。


大学の時には乾電池を詰め込んで動くポータブルスピーカーをiPodにつないで、友達のバイクの後ろにのり、運転する友達のフードに引っ掛けて爆音で音楽を鳴らしていた。10年以上も前の話だ。

だから今みたいな、ポータブルスピーカーを友達が持ち歩き、音楽を鳴らしているのを見ると僕は少し、僕の方が先だったんだぜ、という気持ちになる。売れる前の頃から好きだった歌手を、ヒットチャートを眺めて話す友達に対して思うのと同じように。

しかし、それとは別に音楽をみんなで聴きたいという思いは減退する。正確にいうと、僕の好きな音楽を、好きかどうかはわからない人たちが気にいるのかわからないので、前面に出して流そうとするのには気がひける、ということだ。こういう気恥ずかしさを考えると、高校生の時に知った虎になった男の話を思い出す。尊大な羞恥心と、臆病な自尊心。

それでもみんなで外で、同じ音楽を聴くこと(あるいはBGMにすること)への憧れはある。

機会があるならば、認められるならば、そのための可能性のための道具は持っておきたい。


「外で聴きたい」、という思いのほかに、ポータブルスピーカーがその利便性を発揮するのにはもう一つ機会がある。「中で聴きたい」だ。
中で聴くのならポータブルでなくても、という意見もあるかもしれないが、これはすでに一つ持っている安物のポータブルスピーカーが役割を果たしている。
置き型の、コンセントを必要とするスピーカーについていえば、家の中の基幹的スピーカーとしての役割を果たす。コンポでもホームシアターでもそうだが、ある場所に根ざしているため、それ以外の場所では(音量を大きくしない限り)聴くことができないということが制約となる。これは制約でもあるし、魅力でもあるのだろうけれど、このポータブルスピーカーの文脈で言えば制約になる。

ポータブルスピーカーは、この制約からある程度解き放たれることになるのだ。家の中の、どこにも移すことができる。自分の部屋で、寝室で、キッチンで洗面台で音を聞くことができる。

これはかなり有用な点で、今持っているポータブルスピーカーは、かなり役割を果たしてくれている。中で聴く、にしても動かして使うことのできるスピーカーというのは重宝する存在なのだとおもう。

ブラブラと買い物をしている時に、BOSEののアンテナショップがあり、デモ機としてこのスピーカーがあった。

聴いてみるとやはり今持っているスピーカーと比べて、音の違いを実感する。特に音量を大きくした時の空間支配力がすごい。これは家でも外でも使えますね、となる。それに充電の持ちが16時間もあるという。
昔持っていた4時間しか持たないスピーカーはその充電の頻度が多いに不満だった。
今持っているスピーカーもまあまあ満足はしているのだけど、憧れのBOSE。ほしい。